
野生の猪は大きな牙で縄張り争いをするため、深く傷ついた体を自ら治す治癒力を持っているといいます。ドングリや栗、果物や土に眠る生き物を食べて暮らしている猪の体内には、秋から冬にかけて良質な脂が蓄えられ、その脂は人の皮脂と成分が近く、古くからハンターの間では肌荒れやあかぎれ、やけどにいいとされています。
この猪脂に魅せられたのが、ハンターの父を持つ「GIBIER soap合同会社」(長野県)代表取締役の松岡 磨貴子(まつおか まきこ)さん。松岡さんの会社では、スキンケアブランド「gibier skincare」を立ち上げ、良質な猪脂をふんだんに取り入れた石鹸やコスメを販売しています。

猪脂を使ったコスメブランド …立ちはだかるさまざまな障壁
実家のある岡山県でハンターが仕留めた猪脂を収集し、福岡県にある工場で製造。
松岡さんの父・松岡 邦和(まつおか くにかず)さんは岡山県で印刷会社を経営する傍ら、ハンターとして活動。長きにわたり、地元の有害鳥獣捕獲に貢献してきました。
最初に猪脂の効能に目を付けたのは邦和さん。「従業員の肌を改善してあげたい…」そんな純粋な思いから誕生したのが、猪脂を含む「TATSUMA SOAP」です。
「父の会社にアトピーで悩んでいる女性がいて、父が“俺が治す”と思い立ったことが始まりです。父は一度決めたらとことん前に突き進むタイプ。『TATSUMA SOAP』は2019年に発売しましたが、当時はものすごく闘志を燃やし、開発に挑んでいました」
印刷会社が石鹸を作る…畑違いの新規事業とあり、そこには想像を絶する困難が待ち受けていました。
「父は、まず製造してくれる工場を探すため、日本全国の石鹸屋さんに電話をしました。脂が取れたからといって、すぐに石鹸ができるわけではありません。石鹸屋さんに電話をして、『猪の脂で石鹸を作りたい』と話したところ、『脂は自社で精製していますか?』『検査はしていますか?』など、いろいろ聞かれたそうです。
そんなアドバイスもあり、まずは動物性の脂を生成してくれる会社から探すことに。しかしこちらも『何百キロ単位じゃないと引き受けられません』という会社が多く、そうなると、それに合わせて猪の脂を集めなければならない。集めたら今度は、その何百キロにもなる脂を冷凍するための場所が必要になるわけです。
こうした裏の苦労もあり、さらに今、世の中はボタニカル(植物由来の成分を配合した製品)ブーム。そんな中、あえて動物性のものを作るというわけですから、父のバイタリティーは、やはり桁外れだと思います」
逆境に立ち向かい、動物性の猪脂にこだわったのにはワケがありました。
「ボタニカルは肌に優しいので、敏感肌の方には向いていると思います。その昔、まだ薬が存在しなかった時代、傷を治すために動物の脂が使われていたというのは、それだけ効果があったということ。使っている人の実感としては治りが早いわけです。
例えば猪脂をつけると、ニキビや切り傷の治りが早いみたいなことがありましたし、私が日焼けで脚をやけどしてしまった際も、母に『猪の脂を塗っておきなさい』と言われて試したところ、効果が見られました。その後もずっと猪脂を塗り続けていたら、水ぶくれもできず、脚が艶やかになってきれいに治ってしまったんです。
こうした自分自身の経験も大きく、『猪脂の良さを伝えたい』と思いました。そもそも動物性の脂は人の皮脂に近いため刺激も少なく、敏感肌の方でもお使いいただけます」
猪脂の力を実感し、石鹸の営業に明け暮れた松岡さん。“何かもっとPRできることはないだろうか”と考える日々を過ごします。
「ある日、石鹸でメイクを落としてみたら、きれいに落ちて、クレンジングがいらないことがわかったんです。父が生み出した『TATSUMA SOAP』は、釜焚きと非加熱、2種類の製法で作っていました。そこで製造している石鹸屋さんに、『なぜメイクが落ちるんですか?』と聞くと、『非加熱製法、釜焚き製法だと洗浄力が高くなる』ということがわかり、“これだ”と思いました。この石鹸で洗うと、肌がつっぱらないこともわかりました。
洗浄力と保湿…一見すると矛盾を感じてしまいますが、石鹸の製造過程で猪脂から天然のグリセリンが作られるそうで、乾燥せずに汚れを落とすことができます。“保湿もしてくれるしメイクも落ちるなんてすごくいい。やっぱり猪はすごいかも”と思いました。
洗浄成分があるというと、肌荒れするようなイメージがあるんですけど、猪脂には不飽和脂肪酸が含まれており、この成分自体に洗浄力があるとされています」
天然由来成分のみを使い、すべて工場で手作り
「猪脂の素晴らしさをどう伝えていくのか…」営業で一番苦労したのは、猪脂に対するイメージでした。
「売り込みに行っても、『猪脂=臭そう』『逆に汚れるのでは?』というイメージがつきまといました。最初はネガティブな反応が多かったので、ずっと自信が持てなくて…まず興味を持ってもらうのが難しかったです。
また、石鹸1つ持って行ったところで、先方から『スキンケアセットになっていないと売りにくい』と言われることも多かった。そこで新たな商品開発に取り組むことにしました」
まずは「TATSUMA SOAP」に松岡さん独自のアイデアを込めて「gibier soap」として売り出すことに。新たに「ピーリングクロス」と「オールインワンクリーム」を開発し、スキンケアブランドを確立します。
「『TATSUMA SOAP』もそうですが、石鹸は天然由来成分のみを使い、すべて工場で手作りしているので、赤ちゃんから年配の方まで使っていただけます。また、石鹸にもクリームにもオーガニックの精油を入れています。精油には、心身の状態を整える効果があるといわれていますが、こういう五感で感じる効果は合成香料では得られません」
「ピーリングクロス」(3,300円・税込)は「若桜革工房Dear Deer」(鳥取県)https://gibierto.jp/article/shops/shop/12562/とコラボ。同社は「駆除した鹿の命を無駄にしない」という使命のもと、鹿の革などを使ったバッグや小物を製造・販売しています。
「ある展示会で、テーブルの上に大きな鹿の革が置いてあり、『洗顔できます』と書かれていたんです。天然のコラーゲンも豊富で、毛穴の汚れや古い角質まで取れるし、赤ちゃんを洗っても平気とのことだったので、“これだ!”と思ってすぐに交渉しました。
『gibier soap』だけでも十分保湿できますが、最初は誰も信じてくれなくて、皆さんどうしても化粧水、乳液、美容クリームで使うルーティンがあるんですよね。そこで、次はオールインワンを作りたいと思いました。
オールインワンに猪脂を少量入れても、きっと何も感じてもらえない。量を増やすとその分値段も高くなってしまうので悩みましたが、自分が使ってみて、“そうそう、これこれ”という感動を得られるまで増やしたいと思ったので、猪脂を10パーセント以上配合しています(オールインワンクリーム80g 10,230円・税込)」
愛用者の声にとことん応えるのも松岡さん流。
「重度のアトピーを持つ方には、事前にサンプルをお渡しして、まずは試してもらうようにしています。お客様から『今まで使える石鹸がなかったのに、この石鹸は大丈夫だった』と言っていただけた時は、本当にうれしかったですね。肌の状態を写真で送ってくださるお客様もいて、“少しは役に立っているのかもしれない”とやりがいを感じています。
ゆくゆくは、お客様と一緒に他にはない商品開発をしてみたいですし、皆さんに育てていただくブランドを目指しています。
よく皆さんにお伝えしているのは、肌の状態を良くするためには、水分と睡眠をとる、バランスよく食べる、運動をして血行をよくすることが大切で、内側から外側から、両立させることによって結果につながると思っています。体内が荒れていたら、そこにいくらお金をかけても意味がない。ストレスをうまくリリースして体を整えてこそ、シンプルなスキンケアが生きてくるのではないでしょうか」
「gibier skincare」が目指す先…ジビエ業界の未来
今後「gibier skincare」は、エシカルに取り組むさまざまな企業とコラボし、新たな商品を展開する予定。松岡さんの挑戦はここからが本番。さまざまなストーリーを打ち出し、ジビエ業界に新風を吹き込みます。
「『赤松炭&赤松精油』は、『つなぐ里山』(長野県)とのコラボ商品。過疎化と高齢化によって狩猟の担い手が不足している背景があるように、山も林業に携わる人が少なくなったせいで荒れているのが現状。『つなぐ里山』は自社で伐採しながら商品開発していて、ジビエソープ『赤松炭&赤松精油』(100g 4,510円・税込)は、伐採の過程で得られる精油や赤松の炭を練り込んでいます。
200年続く米農家『株式会社千年美容』(広島県)は、お米を育てながらコスメも作っていますが、今コラボして、米と蜜ろうと猪脂でリップクリームを作れないか試行錯誤しています。
“本来廃棄されてしまうものを利活用したら、実は人の肌にとっても良かった”そんな古人の知恵を、現代人になじみやすい形に…との思いからスキンケアブランドを立ち上げました。今後は教育機関でもジビエを取り入れてもらい、もっと一般的になるべきだと感じているので、その入り口の1つとして、石鹸やコスメがあるのはすごく重要なこと。
個人的には、ジビエ業界ってなんとなくそれぞれが違う方向を見て、独立してやっているようなイメージがあるので、“コラボをしたらこういうこともできますよね”とジャンルを超えて協力できた方が、未来は明るいんじゃないかなと思います」
野生の猪脂をふんだんに使用『gibier soap』の威力、開発者の思い
- 公式サイト: https://gibiersoap.base.shop